人を一人前に愛したのは、最後いつだろう。
自分がこの世で感じた愛は全て嘘に変わってしまった。結論を言えば、今、自分は、誰からも愛を感じていなければ、妙に避けている。他人から愛や興味を示されると、必ずと言って、嘘や偽りへと変わる事が、今までがそうだった故に、自分は特に愛を疑い、愛を憎んだ事さえもある。それは、何か全てを失う事を前提とした、一種の喪失感から生まれる悲しみの種を植えられるような、そういった類の摂理。悲惨としか愛の終わりを経験してない自分にとって、愛は入り口で、悲しみと憎しみの刑を言い渡す。その傷は、深く愛せば愛すほど辛く長いもので、それを恐れ、自分は愛を遠ざけている。幼稚な自分がそうやって、愛を腐らしていった。
年齢を重ねれば、生きることが比例して複雑なもになる。その成長の過程で自分は潰れて、生気を失ったように思える。例え、お前には失うものがないだろと言っても、自分は依然として他人の目を伺い、気にしているのかもしれない。嫌われたくない、最悪という他者評価を受ける前に、少なくとも誰かの前では、普通でいられた自分を完全に削ぐなう前に、自ら消えたいのだ。
ただ単に嫌われることを恐れているだけなのだ。
相手が変に、自分が調子が悪いときに限って鼻を突っ込んでは、様子を伺ったりして気にかけてる仕草に反応を返すことに疲れ、野暮になる。変に期待されて自分の懐を探られては本性がばれ、どうしようもないぐらいに嫌われるぐらいなら、自分から予防策として、変に相手が近づかないよう、人を傷つけ、性格の悪い役を買って、毒を巻きながら威嚇し、人と愛を遠ざける、天の邪鬼。
そんな三十年だったのかもしれない。自分の闇は適当な人間には、到底苦すぎるような気がしてならない。最低の人間になる前に、興味を無くさせ、相手を冷たくあしらう。それが自分なりの愛情の表現。いじけながらも、自分に興味を持った相手、自分自身の両者、お互いの為だと信じている。例え、自分が求める愛が、手に届くところにあったとしても、守りたい醜い自分。自分が愛す人に失望されるぐらいなら、憧れを抱ける関係を維持できる距離に置く。深入りされるとバレる、知られたく無い実態。人には見せられない、臭いものに蓋をしたような、そんな自分がいる。